《The Jeweled Chaplet(玉鬘)》 My name is Sanjo. If you find decent places for us, then I will come and thank you. I promise I will." Ukon would have hoped that Sanjo might aim a little higher. "You have a great deal to learn. But you must know, and you must have known in the old days, that Lord Tono Chujo was meant for great things. He is a grand minister now and he has everything his way. Our lady comes from the finest family, and here you are talking about marrying her off to a governor." "Oh, hush.
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』 Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
自筆「源氏物語」の「玉鬘(たまかずら)」の巻は、禁裏(京都御所)において書かれたものです。
「玉鬘の巻」は、源氏の君35歳の3月から12月までの恋物語。玉鬘は「竹取物語」の月の世界から来たかぐや姫になぞらえられることで知られる。月の都と筑紫の地上ほどに違うという意味で九州に下向した際にも光輝いていたという。
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。
したがって、出品した自筆「源氏物語」は、天皇の曽祖父の貴重な自筆です。 大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。現在の今上天皇と系譜がつながっている。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。二人の皇女・熙子(ひろこ)は、甲府藩主・徳川綱豊と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。近衛基熙は、千利休の孫・千宗旦との茶会の交流(下記に掲示)で知られると同時に、第111代・後西院天皇や後水尾天皇を主賓に迎え茶会を開催。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。基熙は、他にも朝廷・幕府の間で茶会を何度も開催した記録が残っている。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。
自筆「源氏物語」の書の特徴から高松宮系統と称されるものです。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。このため後醍醐天皇の宸翰(しんかん・天皇自筆)にかなり近い年代に書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。従って、応永五年とは、書き始めの年である。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。近衛家で永く保存されておりましたので、保存
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。大炊御門北に邸宅があったため「大炊御門(おおいみかど)」を称する。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。また、二条天皇の外戚として勢威をふるい、左大臣に昇った。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。応永5年(1398年)に従三位となり公卿に列する。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。
旧・所蔵者の近衛基煕は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を著(あらわ)しております。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。近衛基熙が所蔵する自筆・「源氏物語」の中で、最も美しく繊細な筆致で記された平安時代の文字に最も近いとされております。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。
出品した「源氏物語」は玉鬘(たまかずら)の内容の要旨
「玉鬘」(たまかずら)の巻は、『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。源氏の君35歳の3月から12月までの恋物語。夕顔の娘・玉鬘の半生を中心に描かれた巻。玉鬘は頭中将と夕顔の間に生まれた娘で、幼名は瑠璃君といった。母夕顔は頭中将の正妻に脅され姿を隠していた時に源氏と出逢う。その後、夕顔は急逝する。玉鬘は乳母に連れられて九州へ流れる。そこで美しく成長し、土着の豪族大夫監の熱心な求愛を受けるが、これを拒んで都へ上京。長谷寺参詣の途上で偶然にも夕顔の侍女だった右近に再会、その紹介で源氏の邸宅・六条院に養女として引き取られる事となった。源氏の弟宮である蛍兵部卿宮をはじめ、髭黒、柏木(実は異母兄弟)など多くの公達から懸想文を贈られる。源氏の放った蛍の光によって蛍宮に姿を見られる場面は有名。玉鬘」(たまかずら)の姫君のきらびやかな恋物語が描かれている
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」と娘・幾千姫(玉映)の落款(印譜)
原本自筆上部に「玉鬘(たまかずら)」には、「将軍遂縛作蕃生(将軍ついに縛【ばく】して蕃生【ばんせい】となす」という篆書印が押捺されている。玉鬘は「竹取物語」の月の世界から来たかぐや姫になぞらえられることで知られる。月の都と筑紫の地上ほどに違うという意味で九州に下向した際にも光輝いていたという。蕃はチベットをさす。将軍がひそかに脱出しところが捕虜となり江南に送られる境遇を嘆いたもので、筑紫を蕃になぞらえたもので、玉鬘の中の「四月二十日ほどに日取りて来むとするほどに逃ぐるなりけり」を「将軍遂縛作蕃生」なぞらえたものである。白楽天の白氏文集(巻三)の中の有名一節です。紫式部が「玉鬘」を書くに際し、「白楽天」の漢詩を読み理解し共鳴していることがよくわかる。「たまかつら」とも書く。詳細な理由は下記説明欄に記載
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧蔵の来歴については下記「説明欄」に記載
《「源氏物語」玉鬘(たまかずら)の巻》
「玉鬘」の巻は英文で「The Jeweled Chaplet」と表記されます。
《自筆上部の原本自筆上部に「将軍遂縛作蕃生(将軍ついに縛【ばく】して蕃生【ばんせい】となす」という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。》
「額縁入自筆原本」
(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。)
「自筆原本」
自筆右下の上の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子と娘・幾千姫(玉映)の落款。
自筆右下の下の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印 《自筆上部の原本自筆上部に「将軍遂縛作蕃生(将軍ついに縛【ばく】して蕃生【ばんせい】となす」の漢詩文の
落款が押捺されている。漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」中の有名な一節です。》
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。》
自筆下部の印は出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)
自筆が「古切」とされたのは江戸時代。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。
《「源氏物語」玉鬘(たまかずら)の巻》
《事も申》・・・・さし。あか姫君、大弐の北のかた(方)
ならすは、たうこく(当国)のすりやう(受領)の北方になし奉らむ。
三条らも、すいふん(随分)にさかえて、かへり申はつか(仕)う
まつらん」と、ひたい(額)にて(手)をあてゝね(念)し入てを(居)り。
右近、いとゆゝしくもい(言)ふかな、とき(聞)ゝて、
「いといたくこそゐなか(田舎)ひにけれな。中将殿は、
むかし(昔)の御おほえたにいかゝ(如何)おはしましし。
ましていま(今)は、天下を御こゝろ(心)にかけ給へる大臣にて、
いかはかりいつかしき御なか(中)に、御かた(方)しも、
すりやう(受領)のめ(妻)にて、しなさた(品定)まりておはしまさんよ」
といへは、「あなかま、給へ。大臣たちもしはしま(待)て。
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
(2)・自筆の「原文の現代語訳文」は次の通りです。
《「源氏物語」玉鬘(たまかずら)の巻》
《「玉鬘(たまかずら)の姫君」は月の世界から来た美しいかぐや姫とされる》
《玉鬘の姫君、石清水八幡宮に参詣》
《玉鬘の姫君、長谷寺に参詣し右近の君に再会する》
《右近と三条、長谷寺の御堂で玉鬘の姫君の将来を祈願》
《ここ大和の国の守(かみ・大和守)の北の方(正室)もお参りしていたのである。
それがたいそうな威勢なのをこの三条(玉鬘の姫君付下女)がうらやんで言うには、
(三条・玉鬘の姫君付下女)「大慈大悲の御仏には、ほかのことは
お願い申し》・・・・あげますまい。ただ、このたいせつな姫君(玉鬘の姫君)を
大弐(だいに・大宰府の次官・九州の最高権力者)の北の方(正室)か、
さもなければこの国の受領(ずりょう・大和守)の北の方(正室)に
してさしあげとうございます。
三条らもそれなりに出世してお礼参りはいたしましょう」
と、額に手を当てて一心にお祈りしてすわりこんでいる。
右近(紫の上付女房・元夕顔の君付女房)は、
(右近)「三条(玉鬘の姫君付下女)は、まったくいまわしいことを言うものよ」
と思って、
(右近)「ほんとにひどく田舎者になってしまったものですね。
中将様(昔の頭中将・玉鬘の父・内大臣)はあのころでさえ帝(今上天皇)の
ご信望がどれほどでいらっしゃったことか。
今はなおさらのこと、この天下もお心しだいでいらっしゃる大臣で、
どんなにかご立派な親子の御間柄でいらっしゃるのに、こともあろうに
この御方が受領の妻として身分が定まっておしまいになるものですか」
と言うので、
(三条・玉鬘の姫君付下女)「まあお静かに。
大臣大臣とおっしゃるのも、ちょっとお待ちになって。
・・・・《大弐(だいに・大宰府の次官・九州の最高権力者)のお館(やかた)の
奥方様が清水の観世音寺にお参りなさったときのご威勢は、帝(みかど)の
行幸に劣るものでしたか。まあいやな」
と言って、いよいよ手を額から離そうともせずに拝んですわっている。》
備考・右近の君は、現在紫の上付の女房であるが、元は姫君(玉鬘の姫君)母君(夕顔)の侍女。
備考・玉鬘(たまかずら)の美しさは、この世の者とは思えないくらい美しさがきわだち「竹取物語」の月の世界から来たかぐや姫になぞらえられることで知られる。
現代語訳の出典・「源氏物語」小学館刊・阿部秋生・東大名誉教授(1999年没)
備考・出品した自筆は、大炊御門宗氏・自筆で近衛基熙の旧・所蔵になるものです。
(2)・自筆の「英訳文」は次の通りです。
《The Jeweled Chaplet(玉鬘)》
My name is Sanjo.
If you find decent places for us, then I will come and thank you.
I promise I will."
Ukon would have hoped that Sanjo might aim a little higher.
"You have a great deal to learn.
But you must know, and you must have known in the old days,
that Lord Tono Chujo was meant for great things.
He is a grand minister now and he has everything his way.
Our lady comes from the finest family, and here you are
talking about marrying her off to a governor."
"Oh, hush.
英語訳文(英文)の出典:『The Tale of Genji』
Edward George Seidensticker(エドワード・ジョージ・サイデンステッカー)コロンビア大学教授(2007年没)
(2)・自筆の「日本語訳」は次の通りです。
《玉鬘》
做个大弍夫人,不然,做个国守夫人。
我三条也享富。
那我等定当前来隆重愿!”右近听了,
心念祈愿太不吉利,太没志气了。
便三条道:“真正成下人了!
小姐的父从前是个中将,也已威鼎盛了。
何况在当了独天下政的内大臣,
何等尊高!
道要品定他家小姐当个地方官太太不成?”
三条然答道:“算了,不要了!口大臣,
口大臣,大臣得什!
日本訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)日本最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
注記・日本語の文字の一部がシステムの関係で反映されない場合があります。この場合、落札後に正確な日本語の文字を記載した日本語訳文を交付いたします。
「玉鬘の巻」原本の末尾(原本番号45-B)の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印
左の写真が「源氏物語」玉鬘の巻の末尾(原本番号45-B)の押印。
写真一番左下の角印が仙台藩の家紋印(竹に雀)
家紋印の上の2つの印は仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室(冬姫)。冬姫は内大臣・通誠の養女。
冬姫は通称。正式な名は伊達貞子。左端の写真は「玉鬘の巻」末尾の拡大写真。
上の篆書体は、「将軍遂縛作蕃生(将軍ついに縛【ばく】して蕃生【ばんせい】となす」の押印。
篆書体の左の二つの印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)と娘・玉映の落款
写真右上の印は仙台藩医・木村寿禎の落款
右端の写真上は仙台藩主(伊達家)正室一覧表の表紙。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。)
自筆の疎明資料等は、下記の通りです。
(Ⅰ)・上の写真右端は、高松宮「源氏物語」のうち「桐壺」の巻冒頭・(出典資料 別冊「太陽」「源氏物語絵巻五十四帖」(平凡社・刊)78頁。筆者は近衛関白政家公。中央の写真は、応永五年(1398)の年号。年号の左の印は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)。左の写真は、桐壺の巻の奥付。左大臣から関白に昇進した近衛基熙(もとひろ)公の花押。上下2段の花押のうち、上の印は。出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)の落款(印譜)、下の印は仙台藩医・木村寿禎の落款(印譜)
「自筆の画像断層(MRI)写真」
(出品した自筆の「断層画像写真」(玉鬘の巻)MRI 22―22A
自筆二つの印のうち上は、出雲・松江藩主・松平治郷の正室「方子(よりこ)」、上は娘の幾千姫(玉映)の落款。
自筆右下の下の印は、仙台藩第五代藩主・伊達吉村の正室・伊達貞子の押印
「源氏物語・国宝」「玉鬘の巻」主人公の資料
下記写真は、「源氏物語絵巻」の中に描かれる玉鬘の姫君
「源氏物語絵巻 」玉鬘の姫君と侍女、左側は源氏の君
右上は、玉鬘の姫君と侍女、左下は生垣の外からかいま見る源氏の君と従者。
「天皇の曽祖父・大炊御門宗氏の系図」「額縁裏面表記ラベル」
「近衛基熙の肖像」「後西院天皇主賓の茶会の記録」
1番上の写真は、第103代後土御門天皇と曽祖父・大炊御門宗氏の系図(公家事典303頁)
2番目の写真は「額縁裏面」に表記されるラベル。2番目の写真は近衛基熙の肖像(陽明文庫・所蔵)
3番目の写真は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の天皇家・近衛家略系図
4番目の写真は、天皇家・近衛家略系図の出典(淡交テキスト「茶会記」に親しむ・7)平成29年7月淡交社・刊行
大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」近衛基熙・旧所蔵(断簡)を出品 商品説明(来歴) 大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、第107代後陽成天皇の曾孫・近衛基熙の旧所蔵である。近衛基熙は、「源氏物語」に造詣が深く、「源氏物語」の注釈書『一簣抄』(いっきしょう)を書いてある。出品した大炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに近衛家から出雲松江藩主・松平治郷(不昧公)の正室・方子(よりこ)に伝わり、方子の生家である仙台藩から同藩の藩医・木村寿禎に伝来していたものである。
漢詩文 原文上部に「将軍遂縛作蕃生(将軍ついに縛【ばく】して蕃生【ばんせい】となす」という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白楽天」に由来するものです。
源氏物語「玉鬘」原本に記されております。紫式部が「玉鬘」を書くに際し、「白氏文集」の漢詩を熟読したうえで「源氏物語」の「玉鬘の巻」を書いていることがわかります。この原詩の言葉の引用は、「玉鬘の巻」に用いられていることで広く知られている。紫式部がこの原詩に親しんでいたと推定されている。
漢詩の落款の意味 原本上部の漢詩の落款は、「讃」と称されるもので、古来、掛軸の書画に第三者がお褒めの言葉を書き込むもので元々は自筆でした。貴族から始まり藩主、あるいは高名な茶人や僧侶が書かれて、それが茶会の「掛軸」に装丁されて披露されておりました。 特に出雲・松江藩などの茶道の盛んな大名家の所蔵する自筆などに「讃」が付され、後に自筆に代わり、石刻による「漢詩」の篆書が「讃」として用いられました。 「茶事」は、「ヨーロッパの晩餐会(ばんさんかい)」とも言われます。晩餐会では、「ワインを楽しむために行われる」ところも似ています。とりわけ、茶室に入って行うことは、床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)することです。茶道では「掛け軸は最高のごちそう」といわれております。とりわけ、漢詩の落款は、ただ、古典の漢詩を入れればいいという単純なものではなく、たとえば、「源氏物語」の場合、原本の中に込められている紫式部が考えた知識を読み解くことにあります。 「讃」の中に有名な白楽天の漢詩を単純に落款として入れたのではなく、紫式部が原本の中に白楽天の漢詩を読み込んでいることを知ったうえで漢詩を選んでおります。 落款の「讃」の元になるその原文の個所には、
「将軍遂縛作蕃生(将軍ついに縛【ばく】して蕃生【ばんせい】となす」という漢詩文の落款が押捺されている。この漢詩は「白氏文集」に由来するものです。
つまり、原文の内容に関する漢詩の落款を押捺しているのは、茶会における床の間の「掛け軸」(かけじく)を拝見(はいけん)の際に、茶会を主催する亭主が、客に「最高のごちそう」を振る舞うために披露したものです。茶会の際に落款に記された由来を知った客が広くそのことを社会に広めたために結果的に、多くの茶会に開催される「最高のごちそう」として原文に関係する漢詩の落款を付したものです。「落款」の漢詩の由来を待合において説明する際に、長い時間を要し、茶会における貴重な時間であったと推定されております。
自筆の希少価値について 自筆の稀少価値は、和紙の生成技法の緻密さにあります。上の「拡大断層(MRI)写真」でわかる通り、極めて薄い和紙の上に墨の文字がくっきりと浮き上がるように「源氏物語」の文字が記されております。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。肉眼では見ることのできない和紙の繊維の一本一本のミクロの世界を見ることができます。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。
古切の書は、一旦表装を剥離し分析と鑑定検査のために「断層(MRI)写真撮影」をしております。撮影後、展示のために再表装をしております。掛軸や屏風にすることが可能なように、「Removable Paste(再剥離用糊)」を使用しているため、自筆の書に影響をあたえずに、容易に「剥離」することができるような特殊な表装となっております。
断層(MRI)写真 従来、日本の古美術の鑑定の際の分析・解析は、エックス線写真、赤外写真、顕微鏡が中心です。一方、アメリカやイギリスでは研究が進み和紙の組成状況を精確に分析・解析をするために断層(MRI)写真が利用されており、今回の出品に際し、「断層(MRI)写真」を資料として出しました。本物を見分けるための欧米の進んだ分析・解析技術を見ることができます。
寸法 「源氏物語」自筆の大きさ タテ21.8センチ ヨコ12.8センチ。額縁の大きさは タテ37.0センチ ヨコ28.0センチです。額縁は新品です。
「源氏物語」の自筆について 1・筆跡の分析について
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の 一方、欧米では一般的には、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析をコンピューターの数値によって解析しております。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。解析の基準となるのが「ドーバート基準」で、アメリカでは日本国内の画像データを自動的に収集、自筆の分析に際し、数値データをコンピューターで自動的に解析し「極似」した画像データによって筆者を識別する研究が進んでおります。
2・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)の自筆の特定について
自筆の筆者は、書体、書風から京都の公卿によって書かれたものであるはわかっていたが、昭和38年以来、筆者名は特定されていなかった。その後、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析と並行し、奥書の「宗」の字の下の文字が判読できずにいた。それが、技術の進歩により「宗」の下の文字が「氏」と判読された結果、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」であることが判明した。
「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、大炊御門宗氏が23歳から31歳までの間に書かれたものと推定されている。宗氏は、正二位・内大臣まで昇進したのち、応永28年(1421)47歳で没している。
3・自筆「源氏物語」の旧・所蔵者の特定の経緯について
近衛基熙の旧・所蔵の特定は、「花押」の写真照合技術によるものです。アメリカのコンピューターを用い、「筆者識別(Handwriting Analysis)」と呼ばれる文字解析を、花押の照合に応用し、指紋の照合方法と同じ手法により99.9パーセントの確率で特定に至ったものです。
4・近衛基熙(このえもとひろ)について
近衛基熙は、慶安元年(1648年)3月6日、近衛尚嗣(関白・左大臣)の長男として誕生。母は後水尾天皇皇女女二宮。実母は近衛家女房(瑤林院)。幼名は多治丸。父、尚嗣が早世し、尚嗣と正室女二宮の間には男子がなかったため、後水尾上皇の命により、近衛家の外にあった基熙が迎えられて上皇の保護下で育てられた。 承応3年(1654年)12月に元服して正五位下に叙せられ、左近衛権少将となる。以後、摂関家の当主として累進し、翌年明暦元年(1655年)従三位に上り公卿に列せられる。明暦2年(1656年)に権中納言、万治元年(1658年)に権大納言となり、寛文4年(1664年)11月23日には後水尾上皇の皇女常子内親王を正室に賜った。寛文5年(1665年)6月、18歳で内大臣に任じられ、寛文11年(1671年)には右大臣、さらに延宝5年(1677年)に左大臣へ進み、長い時を経て元禄3年(1690年)1月に関白に昇進した。近衛基熙は、寛文5年(1665年)から晩年まで『基熈公記』で知られる日記を書いている
HP 近衛基熙・旧所蔵「源氏物語」自筆を出品いたしました。 出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
ツイッター「源氏物語の世界」 も合わせてご覧ください。
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